北辰一刀流の大先輩
坂本先輩は、1835年11月15日に現在の高知県にあたる土佐藩で6人きょうだいの末っ子として誕生しました。その後、坂本先輩が12歳の時に母親が亡くなり、3歳上の姉・乙女が母代わりになりました。乙女は武芸にもすぐれ、文武両面で坂本先輩を指導します。坂本先輩はこの姉とは終生親しく、乙女に宛てた手紙は今も数多く残されています。
その後、大きな転機を迎えることになります。北辰一刀流との出会いです。江戸での武術修行先として坂本先輩は、北辰一刀流の道場に入門し、後には塾頭になります。
その年の6月、アメリカ海軍のペリーが軍艦4隻を率いて浦賀沖に来航し、それ以降日本は大きく動き始めました。江戸時代末期にあった日本は黒船を目の当たりにし、攘夷思想が広がっていきます。1861年、日本各地で尊王攘夷運動が高まる中、土佐藩の出身で江戸留学中であった武市瑞山は土佐勤王党を結成。これに賛同した坂本先輩も一員として加わりました。やがて長州藩の尊王攘夷運動の中心にいた久坂玄瑞に刺激を受け、1862年2月、坂本先輩は脱藩を決意します。
脱藩後の坂本先輩は、その後の運命を決定づけるような人物と出会いました。それが、勝海舟先生です。北辰一刀流の師匠である千葉定吉先生(北辰一刀流流祖の千葉周作先生の弟)に仲立ちしてもらい勝海舟先生と初対面しました。そして、開国後の日本のあり方について考えていた勝海舟先生にたちまち心酔した坂本先輩は、その場で門下生となりました。
坂本先輩は勝海舟先生とともに海軍操練所を設立したり、勝海舟先生の紹介によって薩摩藩の西郷隆盛と対面し、敵対する薩摩と長州の関係改善を図ったりと奔走します。その後海軍操練所のも廃止により、坂本先生は薩摩へ向かい薩摩の地で日本初の商社「亀山社中」を設立します。亀山社中は船で運送を行いながら利益を上げ、その利益を倒幕運動に活かすという、当時としては画期的な考え方により設立された組織でした。
坂本先輩は、幕府に敵対する薩摩藩と長州藩の同盟を画策する活動をしていたことから危険視されることになりました。そして、坂本先輩が寺田屋にいる情報をつかんだ伏見奉行所は、1866年1月に寺田屋を襲撃します。しかし、坂本先輩は間一髪傷を負いながらも脱出に成功しました。
1867年、襲撃の傷が回復した坂本先輩は再び精力的な活動を開始します。そのひとつが亀山社中を海援隊に改め、坂本先輩自身が隊長に就任したことです。1867年、武力での倒幕を狙う長州藩と薩摩藩に対して、坂本先輩は武力衝突を避ける大政奉還の計画を企て、土佐藩主から江戸幕府に進言してもらうよう、奔走します。
しかし、明治維新への新しい時代の幕開けを坂本先輩がみることはできませんでした。11月15日、潜伏していた京都四条河原町の近江屋で中岡慎太郎との会談中に襲撃を受け、不慮の死を遂げたからです。この近江屋事件により、坂本先輩は31年という短い生涯を終えます。
❖渋沢栄一先輩
「近代日本経済の父」と呼ばれる渋沢先輩は、天保11(1840)年に武蔵国榛沢郡血洗島(ちあらいじま)村(現在の埼玉県深谷市)に生まれました。生家は農家で、麦作のほか養蚕や藍玉の製造販売を手掛けていました。渋沢先輩は、幼い頃から家業に励んだほか従兄の尾高惇忠に『論語』をはじめとする漢籍を学びます。
その後、大きな転機を迎えることになります。北辰一刀流との出会いです。北辰一刀流の流祖である千葉周作先生の次男である千葉栄次郎先生の道場に入門し、剣術修行に励みながら、勤皇志士と交友を結ぶび尊皇攘夷思想に目覚めました。
そして、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜外国人居留地を焼き討ちにしたのち長州藩と連携して幕府を倒すという計画を立てましたが、直前に中止します。この計画を中止したことをきっかけに、倒幕志士から幕臣へと転身することになります。
元治元(1864)年に渋沢先輩は一橋家に仕えることになり、当主・慶喜公が将軍となったため幕臣になります。慶応3(1867)年には、パリ万国博覧会の幕府使節随員となり、徳川昭武公に従って渡欧しヨーロッパの社会経済制度を見聞することから日本の近代化の必要性を痛感しました。
幕末から明治へと時代が変わり、渋沢先輩は明治新政府に出仕した後、実業家として幅広く活躍します。日本初となる銀行、鉄道やガスといった様々な会社を設立・育成し、その数は生涯で約500と言われています。また、学校や病院といった約600の社会事業に携わりました。
明治42(1909)年、69歳になった渋沢先輩は実業の第一線から退き、大正5(1916)年には完全に引退します。以後の渋沢先輩は各種社会事業や民間外交にひときわ注力しました。
そして、大正15(1923)年から数年にわたり、渋沢先輩は毎年第一次世界大戦の終結日である11月11日にラジオ放送で平和を訴える演説を行いました。また、日本国際児童親善会を設立し、アメリカとの「友情の人形」の交換を主導しました。これらの国際平和への貢献が評価され、渋沢先輩は2度にわたってノーベル平和賞の候補になっています。
昭和6(1931)年11月11日、渋沢先輩は東京・飛鳥山の自邸で91歳の生涯を閉じました。
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